あてはめるー『死刑でいいです』感想 編著 池谷孝司

さきほど『死刑でいいです』読み終わりました。

今回は「ネタバレ」です。

2つ前に感想を書いた『殺人犯はそこにいる』を買ったら、アマゾンのおすすめに出てきたので購入しました。

「死刑でいいです」とは?

タイトルに何か納得のいかないイライラというかモヤモヤ感があったので、それを晴らすためにまず読んでみようと思って買ってみました。

そして、やっぱり、読後のもやもや感がどうしても拭えないです。

まず、「死刑にしてください」でなく、「死刑でいいです」…?

なんて上からの物言いなんだろう?というのが、まず、タイトルを見たときの感想です。

この段階ではまだ読む前です。

 

筆者が言いたいことはよくわかります。

再犯を阻止するために、もっと周りの手助けが必要な障害を持つ犯罪者がいるということ。

孤立させてはいけないということ。

 

本書は、大阪姉妹殺害事件に関するルポです。

警察車両で連行される際にニヤリとした山地悠紀夫の顔を、私は今も忘れることができません。

記憶に残っている方も多い事件なのではないでしょうか。

 

山地悠紀夫の父親は酒に酔うと暴れては暴力を振るい、祖母も酒乱。貧困の中でも、母親は買い物依存症を連想させる行動がたびたび見られていたようです。

父親が病気で亡くなったあとは、ガスや電気だけでなく、水道まで止められるほどの貧困家庭。

水道は多少滞納しても止まらないと聞いたことがあるのでよっぽどのことです。

 

生活保護を受けるなどアドバイスしてあげられる人もいなかったのでしょうか。

 

しかし、少年院などでも、山地は、そんな父親のDVなどまるでなかったかのように、父の存在を肯定し、たまにはあったであろうと想像がつく程度の「父との楽しかった思い出」だけを口にします。

 

16歳のとき、金属バットで滅多打ちにして母親を殺害

理由は、母親にそのとき山地がつきあっていたとされる女性との仲を裂こうとされたことと、借金の相談(母親はかなりの額の借金を抱えていた)を自分にしてくれず信用されていないと思ったから。

さらに、山地が新聞配達で稼いだお金も母はほとんど使い果たしていました。

広汎性発達障害のアスペルガー症候群

山地悠紀夫は、少年院で「広汎性発達障害のアスペルガー症候群」と診断され、矯正教育を受けたといいます。

そして、本書の中でもその「広汎性発達障害」について識者からの意見や実際にその障害を持つ方々の「発達障害を持つ大人の会」が紹介されています。

 

実際に発達障害を持つ主宰者の方が、この会に山地悠紀夫が来てくれていたら二度目の殺人は阻止できたかもしれないとおっしゃっています。

私は専門家ではもちろんないので、偉そうなことは言えませんが、まず、山地悠紀夫は本当に発達障害だったのだろうかという疑問。

 

裁判の判決では、山地悠紀夫は、「発達障害でもアスペルガー症候群でもなく『人格障害』である」という精神鑑定の結果が採用されています。

責任能力ありということです。

 

附属池田小事件、神戸連続児童殺傷事件や秋葉原通り魔事件、そしてこの山地悠紀夫の起こした大阪姉妹殺害事件。

常人であれば、想像もつかないような事件が起こると、責任能力の有無を争点に裁判が行われますが、正直、私はいつも「怨恨(被害妄想的ものは除く)などではなく、無差別に人を殺す人間はどんな理由があるにせよ『普通』ではないのではないか」と思います。

あえて『普通』という言葉を使いますが。

 

確かに、よくドキュメンタリー番組などで、刑期を終えた人が、刑務所から出所するときの所持金があまりにも少なくて、これで生活していけるの?といつも感じます。

少年であれば親もいるだろうし、親がいなかったとしても、親戚や友達や頼ることの出来る人がいれば、仕事が見つかるまでは何とかなるかもしれません。

 

しかし、そうでなければ、窃盗などに関する犯罪に限って言えば、再犯の可能性は高くなっても仕方がないと思わざるを得ません。

そのあたりのケアはもっときちんとされるべきだと思います。

 

犯罪を犯したものにそこまでする必要はないという意見もあるとは思いますが、そこは再犯を阻止するために、税金を使ってでもケアは必要なのではないでしょうか。

もし、その人に何か障害があれば、さらにその必要性は高くなるとも思います。

 

山地悠紀夫は、少年院を出た後、更生施設に入りましたが、ずっといられるわけではありません。

後見人になってくれそうなのは、伯父(殺害した母の兄)しかいなかったのですが、母親殺害を反省しない山地の後見人になってくれなかったのは当然のことと言えるでしょう。

 

伯父ではありますが、妹を殺害された被害者でもあったからです。

 

さらに、施設を出たあとの仕事も、やりがいを持ってやっていた新聞配達の仕事に戻してあげればよかったのではないかと思いました。

山地が大好きだった父の友人の紹介で、父と同じ仕事がしたいと望んだパチンコ屋さんの仕事を紹介されてそこで働くならまだよかった。

 

よりにもよってゴト師…って。

 

これ自体が犯罪行為なのに。ここから山地は本格的に道を踏み外していってしまったのかもしれません。

 

話をもとに戻します。

本書の中でも、山地悠紀夫は「広汎性発達障害」であったということから話が進んでいきますが、本当にそうだったんでしょうか?

 

自分たちが理解できないから山地の行動を解明しようとして何かに「あてはめている」とは言えないでしょうか?

山地悠紀夫の生い立ちが悲惨なものであったことも含めて、犯罪を犯したことには何か精神的な障害があったはずだと。

 

悲惨な生い立ちやいわゆる毒親に育てられた子どもたちは世の中にはどれだけいるでしょうか。

その全てが人を殺すわけではないし、逆にとても優しい人が多いと感じます。

自分が悲惨な家庭で育ったから、家族を大切にしようと考える人が殆どです。

私の周りにも何人かそういう人が実際にいます。

 

山地悠紀夫が母親を殺めたときの理由は、共感はしませんが、まだ殺してしまいたいと思う気持ちの意味は理解できます。

しかし、二人の姉妹の殺害には理由などありません。

本書の中では、二人の姉妹のうち自分より年上の姉に母親の面影をみて、近づきたかったがコンプレックスがありできなくて、殺害に至ったのではという内容が書かれていますが、全く納得がいきません。

 

母親の影をみて近づいたというなら、性的暴行まで加えて、めった刺しにして火をつけるでしょうか。

「死刑でいい」はずなのに、証拠隠滅のために火をつけるでしょうか。

たまたまその時間に帰宅した妹さんまで殺害したのはなぜでしょうか。

 

ただ単純に、母親を殺害したときに感じた性的興奮をもう一度味わいたかっただけなのでは…と思わずにはいられません。

 

そして、何より本書には被害者側の記述があまりにも少なすぎると思います。

本書が書かれた目的が凄惨な殺人事件を防ぐヒントを得るためのものであったからということもあるでしょうし、平等な目で書かれた本という評価もあるようですが、命を奪われた被害者と殺人者がなぜ平等に扱われなければいけないのでしょうか。

 

そして、本書のラスト近くに、被害者の二人の姉妹の命日には、たくさんの友人が今も被害者のご実家に集まり、思い出話に花を咲かせていることやご両親も前を向いて歩み始めていると書かれています。

ご両親が少しでも前を向いて歩いて行こうとされているのなら、それは本当にすばらしいことです。

しかし、それは、山地悠紀夫が死刑執行されたからでしょう。

最後に

山地悠紀夫は「生まれてこなければよかった」と言ったそうです。

やはり彼は、人の命も自分の命も、失われることがどういうことなのか、人の生と死の意味を理解すること無く、死刑台に消えていったのかもしれません。

孤立させない。

手助けが必要。

頭でわかっていても、彼のような人と関わることに、自分勝手な私はまず恐怖が先に立ってしまう。

 

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