こんにちは。
はるき ゆかです。
昨日の夜、角田光代著「八日目の蝉」読み終わりました。
映画化、ドラマ化もされていますが、原作を読むまでは観ないようにしてきました。
女性にとって「子供を産み育てること」とは何なのでしょうか?
ややネタバレ感想です。
「八日目の蝉」 あらすじ
逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか……。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで生きもつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。
[引用元]中公文庫「八日目の蝉」裏表紙より
1章・2章のふたつの章からなる作品です。
1章は、不倫相手の子供を誘拐した野々宮希和子と薫(恵理菜)の逃亡劇。2章は逃亡生活を終えた恵理菜のその後が描かれています。
希和子は逃亡中、恵理菜に、自分が堕胎してしまった子供につけるはずだった名前「薫」と名を付けます。
物語は、日記形式に〇月〇日と、進んでいき、それが、追い詰められる希和子の逃亡生活の緊張感をさらに強く表わしています。
野々宮希和子と薫の逃亡
希和子がやってしまったことは、決して許されることではありません。
しかし、本書の冒頭から、私はある違和感を感じずにはいられませんでした。
夫を駅まで送るために家に乳飲み子を残し、家の鍵もかけない…?
この違和感はずっとぬぐうことが出来ませんでしたが、それも2章を読み始めたら「なるほど」と理解できました。
私は出産経験もありませんし、子育ての経験もありません。
女性にとって「出産できること」は大きな誇りであり、何もできない小さな赤ちゃんを育て上げることは、女性として何事にも代えがたい尊いことだと思います。
それが出来なかった私には、ある意味コンプレックスを感じる部分でもあります。
希和子は、不倫相手の秋山丈博の子供を堕胎し、一生子供が産めない体になってしまいました。
そして、秋山の妻・恵津子は、希和子を「がらんどう」だと罵ります。
恵津子にとって希和子は、自分の夫を奪った憎い女です。
夫を取り戻したくて、希和子にダメージを与えてたくて、放った言葉なのでしょう。
この言葉は、希和子を、怒り狂うほど傷つけました。
この気持ちは、私自身にもとてもよくわかります。
女性は、憎しみを持った女性に限って(そうでなければ同情的ですが)いえば、本能的に「子供が産めない」ということを、相手を最も傷つける言葉だと理解しています。
そして、出産と子育ては、一続きになっているようで実はそうではないことは、この「八日目の蝉」を読んで、私が最も強く感じたことです。
私の学生時代の友人も、ほとんどが母となっています。
そんな友人たちの中には、学生時代はお嬢様育ちで何もできない、人に頼ってばかりいたのに、今では「強い母」となっています。
おそらく、女性は母になるのではなく、子供に母にしてもらうのだと思います。
育てているようで、育てられているのかもしれません。
そして、母になることに向いている人と向いていない人がいることも、悲しいけれど厳然たる事実としてあるのです。
それは、さまざまな親子の悲しい事件が、巷で報道されている通りです。
事件になるほどではなくとも、家庭内で起こる小さな出来事(子供にとっては決して小さなことではない)でも、それはわかることだと思います。
今は亡き私の母も、母になることが本当に向いていた人なのか…と考えてしまいました。
どちらかというと、私は母に気を使って生きてきました。
母は、あまり現実を直視できるタイプの人ではなかったからです。
希和子と薫を助ける女性たち
もともと、男性の登場人物が少ないと言うこともありますが、「八日目の蝉」には、ろくな男が出てきません。
秋山丈博、岸田さん、久美の夫、康江の夫…。
もちろん、男性の中にも、女性以上に「母性愛」のある男性がいます。
しかし、「八日目の蝉」の女性たちは、そういう男性には誰も巡り合ってはいないのです。
希和子が薫を秋山家から連れ去ったとき、初めに希和子を助けてくれたのが学生時代の友人で、現在子育中の康江。
誰ともわからない希和子を、損得勘定はあったかもしれませんが、自分の家に入れてくれた名古屋の老女・中村とみ子。
「エンゼルホーム」(宗教団体がボランティア施設へと変遷していった女性しか入れない施設)の女性たち。
「エンゼルホーム」に入居したときに一緒だった久美。
「エンゼルホーム」を逃げ出したあとに、希和子が働いていたラブホテルの従業員の女性たち。
薫の面倒を見てくれた、絵が上手なハナちゃん。
久美の母親で、小豆島のそうめん屋さんの昌江さん。
薫がもとの恵理菜に戻ってからは、「エンゼルホーム」で一緒だったマロンこと千草。
恵理菜の妹の真里菜。
希和子は、逃亡生活をしながら、さまざまに名前を変え、助けてくれる女性たちを、感謝しながらも薫との生活を守るのために「騙して」いました。
それほど、希和子にとって薫は何よりも大切な存在だったのです。
希和子自身が言っていたように、希和子と薫にとっては、小豆島で暮らした日々が、短かったけれどとても幸せなものでした。
希和子には、ある「根拠のない自信」がありました。
自分と薫は何かに守られている。
きっとこのまま何事もなく、この生活を続けて行くことが出来ると。
しかし、突然、二人が引き離されるのも、その小豆島の地でした。
その自信と小豆島での幸せで平穏な暮らしが、希和子を油断させたのです。
「誘拐された子」恵理菜
恵理菜(薫)は、大学生になって、秋山の家を出ます。
恵理菜が誘拐された事件は、ワイドショーなどでも大きく取り上げられ、周囲にそれを知られそうになるたびに、秋山家は東京近郊を転々とすることになります。
それまでの恵理菜の人生は、ひとところにとどまり続けることのない人生だったということです。
誘拐されて4歳まで、母親ではない女性に育てられた子供。
どれだけの好奇の目にさらされたことでしょう。
希和子に大切に育てられていたとしても、恵理菜にはその記憶がほとんどありません。
当然、希和子を恨んでも当たり前だと言えるでしょう。
父が希和子と浮気をしていた頃、母もまた浮気をしていたことを知って、恵理菜は自分が誘拐されなかったとしても、自分は今と何もかわらなかったのではないかと思います。
今となっては、それは誰にもわからないことです。
しかし、秋山家を崩壊させたのは、果たして本当に希和子だったのでしょうか。
七年土の中にいて七日しか生きられない蝉
蝉は、七年間地中にいて、地上に上がってからは、七日間しか生きられないと言われています。
八日目に蝉は死んでしまうのです。
恵理菜は薫だった頃、そんな蝉の一生をあんまりだと思っていました。
それが大人になって、恵理菜は
「でもね、大人になってからこう思うようになった。他のどの蝉も七日で死んじゃうんだったら、べつに悲しくないかって。だってみんな同じだもん。なんでこんなに早く死ななきゃいけないんだって、疑うこともないじゃない。でも、もし、七日で死ぬって決まっているのに死ななかった蝉がいたとしたら、仲間はみんな死んじゃったのに自分だけ生き残っちゃったとしたら(中略)そのほうがかなしいよね」(本文 p.282~283より引用)
と、思うようになります。
人間という生き物と比べると蝉の人生は、何だか可哀想なほど短いと思うけれど、蝉自身には悲しいことでも何でもなくて、それが「普通」なんだということです。
そして、長く生きることで、いらない苦しみを背負わなくてはならなくなるのです。
そんな恵理菜に、千草は少し時間を置いてからこう言います。
「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ」(本文 p.343より引用)
人と違う人生を生きた人は、七日目より先の人生を生きているのです。
恵理菜は、普通の女の子の人生とは違う人生を歩いて来ました。
そして、今、恵理菜はさらにまた人とは違う人生に踏み出そうとしていたのです。
しかし、もう恵理菜は一人ではありません。
千草も、妹の真里菜もいます。
本書は、ラストに近づくにつれて、とても目の前が開けるように明るくなっていきます。
恵理菜の未来は、きっと何があっても明るく陽の光をたくさん浴びて歩ける人生だと。
そして、野々宮希和子も。
最後に
角田光代著「八日目の蝉」の感想でした。
自分が女性という「性」で生まれて来たことの意味を、初めて真剣に考えたような気がします。
今、出産し子育てを終えた、女性としての仕事をしっかりと果たした人にとって「八日目の蝉」という小説はどのような感想を持つのだろうと考えました。
今までも、これからも出産も子育ても、おそらくもうすることがない私にとって「八日目の蝉」は、自分は「がらんどう」だと思いながらも、生きて行かなければならないのだと痛感した小説でした。